【死に執着する事は穢れである】と言う価値観があります。
仏教でも【喪に伏す】期間を設けて、死から無関係な人を遠ざけます。
更に縁者に対しても、【法事】と言うシステムで【死】に触れる機会とその間隔をコントロールしています。
穢れとは【ケ=日常】が【枯れる】というお話は以前このブログでも書きました。
ポジティブな方向でも、ネガティブな方向でも、【死者】とその死について、執着し、更に好き勝手にかたる事は古来よりタブーとされてきました。
言葉によって、ポジティブな効果を与える事を【祝】、ネガティブな効果を与える事を【呪】と言います。
言葉の、人間のソフトウェアに与える影響は決して馬鹿に出来ないものです。
過去の歴史を観ても、人の【死】を依代にして、または呼び水にして、様々な事が行われてきました。
たった一つの銃弾から始まった、世界を巻き込んだ大戦もあります。
そこには他にも様々な原因があったのでしょう。
いろいろな利害や思想の絡み合った結果だと言うのが正しいと思います。
しかし、一つの【死】を依代に、呼び水に、【大義名分】にして、多くの悲劇を生む【行動】を起こしてしまったのです。
そこまで大きな事では無くても、様々な場面で【死】は使われてきました。
それでも【祝】になればまだ良いのですが、大抵は【呪】となり、ろくな結果にならない事が多いです。
生きている人間ならともかく、故人は弁解や訂正が出来ないですから。
数少ない成功例を挙げるなら、この動画でしょうか。
Sound of Honda Ayrton Senna 1989
HONDAのスタッフは実にお見事です。
ただそれでも、故人を利用した歪なプロモーションとも言えるでしょう。
しかし、その与える影響はポジティブでした。
同じ様な技術の結晶でも、CGによるバーチャルで再現された永遠の歌姫の時の様に、嫌悪感を持つ人は少なかったでしょう。
何が違ったのか?
いろいろと思考する余地はありますが、私は製作者の違いが一番大きかったと思います。
NHKとHONDA。
世間の人の、両社に対する印象や想いの違いが、その評価の分かれ目だったと思うのです。
故人同士の優劣では決してありません。
とある事件や事故で人が亡くなる事があったとして、
近親者以外が、故人に触れる事は忌避すべきです。
が、どうしてもと言う時は、公に発表された情報以外に触れてはいけません。
推測や憶測で騙る事は穢れ・呪詛を生みます。
自分の考えを【想像の故人の口】で騙ったり、
ましてや、バズらせて人気取りや数字捕りに利用する。なんて絶対にいけません。
…ですが、それをする人が時々現れます。
そうすると、その度に、情報は故人から乖離していきます。
【死人に口なし】を利用して、故人の名の下に成された結果は、穢れた、呪われた物になってしまいます。
何故発表されたか。
何故発表されていないか。
その事をもう少し考慮された方が、いいでしょう。
例え真実で無かったとしても、です。
その【真偽】よりもその【理由】が大切な時もあります。
事実は真実とは限らないのです。
人の生き死に以外でも、
言葉であったり、
出来事であったり、
その事実と憶測の割合が狂えば狂うほど、それは悪影響をもたらすものに変わってしまいます。
本来なら、言葉はその言葉以外の意味を持たないはずなのですが、人は見えるものでは無く、見たいもので考えてしまう時があります。
言葉・情報に後から不必要な意味を付け加えるのは危険な事なのです。
【頑張って】と言ってはいけない。みたいに、本来と違う意味になってしまう時もあります。
それが時として言葉や文章の魅力になったり、魔力になったりもするのですが…。
残念ながら言葉に縛られてしまう人もいるのです。
言葉は、その直接の意味以外の情報が付随すればする程、呪術となっていきます。
他者に対してだけでなく自己に対しても、です。